手放すのが上手な人は、あまりいません。
一度手に入れたものは、握っていたい。長くかけたものほど、途中でやめられない。
そういう私たちに、この神様は静かな例を残しています。
事代主とは、どんな神様か
事代主(ことしろぬし)。大国主の子で、託宣の神です。
名の「コトシロ」は、言葉を代わりに述べること。つまり、神の意を人に伝える役割を指すとされます。
美保神社の御祭神。のちに恵比寿神と同一視され、商売繁盛の神としても広く信仰されるようになりました。
司るものは、託宣。受容。そして、切り替え。
国譲りの、その日
高天原は、葦原中国を天孫に譲るよう求めていました。二度の使者は失敗し、三度目に建御雷(たけみかづち)と経津主(ふつぬし)が稲佐の浜に降り立ちます。
建御雷は剣を波の上に逆さに立て、その切先の上に座して、大国主に問いました。この国を天つ神の御子に献上するか、と。
大国主は答えます。
「私は答えられません。子の事代主が申し上げるでしょう。」
そのとき事代主は、美保の岬で鳥を狩り、魚を釣っていました。
使者が向かい、問います。
ためらわなかった
事代主の返答は、驚くほど短いものでした。
「恐れ多いことです。この国は、天つ神の御子に差し上げましょう。」
それだけです。
条件も、交渉も、時間の猶予を求める言葉もありません。
そして乗っていた船を踏み傾け、手を打って**青柴垣(あおふしがき)**に変え、その中に隠れました。
釣りの途中でした。竿を置いて、それきりです。
弟は、戦いました
対照的なのが、もうひとりの子・建御名方(たけみなかた)です。
「力比べをしよう」と申し出て、建御雷の腕をつかみます。けれどその腕は氷柱になり、剣に変わりました。逆に手をつかまれると、葦を引き抜くように投げ飛ばされます。
逃げに逃げて、諏訪の地まで追い詰められ、そこから出ないことを誓いました。
同じ父の子が、まったく違う応じ方をしています。
どちらが正しいという話ではありません。ただ、事代主は争わずに済んだ。それだけの違いです。
「手放せない」を、脳の側から見ると
失うことは、得ることより強く効きます
同じ大きさのものでも、手に入れる喜びより、失う痛みのほうが大きく感じられることが知られています。
千円もらう嬉しさより、千円落とす悔しさのほうが強い。この非対称が、手放す判断を難しくします。
事代主が退いたとき、彼は国を失いました。頭で計算すれば、譲ったほうが被害が少ないと分かっていたはずです。それでも、たいていの人はそこで止まります。
かけた時間が、判断を狂わせます
もうひとつ、やっかいなものがあります。
すでに費やしてしまって取り戻せないもの――時間、お金、労力――を、私たちは判断に持ち込んでしまいます。
「ここまでやったのだから」 「いまやめたら、今までが無駄になる」
本来、これから先の得失だけで決めるべきなのに、過ぎたぶんが天秤に乗ってしまう。サンクコスト効果と呼ばれるものです。
大国主は、長い時間をかけて国を造りました。二度殺され、根の国の試練を越え、少名毘古那と共に土地を整えた。費やしたものが、これ以上ないほど大きい。
だから大国主自身は答えられなかったのだと、私は思っています。答えを子に委ねたのは、逃げではなく、自分では決められないと分かっていたからかもしれません。
決められる位置にいる人がいます
そして事代主は、釣りをしていました。
国造りの現場から少し離れた場所で、別のことをしていた。距離があったのです。
自分のことは決められないのに、他人のことなら判断できる。そういう経験は誰にでもあると思います。距離があるほど、見通しは良くなります。
もし決められないことがあるなら、信頼できる誰かに聞いてみるのは、逃げではありません。事代主がしたのは、そういう役割でした。
いま、あなたに置き換えると
引き際を知る者が、次を手にします。
いま手放せずにいるものがあるなら、一度だけ問い直してみてください。
「これまでにかけたもの」を全部なかったことにして、今日はじめてこの選択肢を渡されたとしたら、選ぶだろうか。
選ばないなら、それは続ける理由が過去にしかない、ということかもしれません。
そして、退くことは負けではありません。
事代主は、恵比寿として今日まで信仰されています。あの日、譲ったほうの神が、いまも笑って祀られている。
この神様が現れたとき
神託引きで事代主が出たなら、それは手放していいという報せです。
しがみついていたものから手を離すと、その手で別のものが持てます。
竿を置いた神は、そのあと福の神になりました。
事代主とゆかりの深い場所
- 美保神社/島根県松江市 ― 事代主の総本宮。国譲りの舞台となった美保の岬に鎮まります
- 今宮戎神社/大阪市浪速区 ― 「えべっさん」として知られ、商売繁盛の信仰を集めます
- 三嶋大社/静岡県三島市 ― 事代主を主祭神のひとつとしてお祀りします
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